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実家が震災にあった友達からの連絡が久々にキタ!!  



ご実家が被災した石巻の友達から久々に連絡が来ました。
あと、偶然ですが、次男がリハビリに通っている病院に、仙台からの実習生が来てたんですよ。
で、現地の話はなかなか聞けないのでちょこっとUPします。
3月に記事にしましたが、友人はトウキョウ暮らしなのですが、ご両親が石巻。
震災後、トウホク地方との連絡はなかなか取れなかったのは皆様ご存知と思います。特に彼女のご両親の場合、お二人が別々に避難したのと、80歳すぎてますので、携帯とかネットとかもなじみが無かったので、普通より時間がかかったそうです。
お母様はご自宅で被災して、そのときに周りにいた人たちと一緒に(老人ばっかり)避難、避難場所の中学校に無事に到着。何日かたって彼女の元職場のお友達が職場のPCを使わせてもらって、トウキョウの彼女の携帯にお母様の無事と、避難場所をメールしてくれたそうです。

大変だったのはお父様のほうでした。このお父様は現役の頃はずっと漁船に乗っていて、外国での漁業をされていました。震災のときに、地震よりも津波の被害がひどいという情報を聞いたときに、彼女はお父様は船に乗ってたから海系の災害は大丈夫だろうと、ぼんやりと思ったそうです。
お父様は足がわるいので、頻繁にデイケアに通われていて、当時もデイにいたそうです。彼女はここでも個人で居る母親よりも、組織で動ける父親のほうが(ましてや元船乗り)多分大丈夫だろうと思ったと言ってました。

お父様はデイのスタッフと早々と避難所に向かってワゴン車に乗って、避難場所の近くの中学校に到着。ワゴン車の一番後ろに座っていて、利用者の方々がゆっくりと降りるのを待ち、さて、自分の番…と思って、ドアを持ったとたんに津波が来て、車に乗ったまま流れて行ったそうです。

ひたすら流されたのですが、偶然にワゴン車が2階建て住宅のどこかに引っかかって、なんとドアが開いたそうです。それで、足が悪いのも忘れて、夢中で1階の屋根に飛び移って、2回の窓から中に入ったそうです。お父様が飛び移ると同時にワゴン車は流れていったそうです。
勿論救助もまだです。お父様はその家の2階で一晩過ごしました。

翌日、救助されたのですが、デイの利用者の人たちが避難した中学校の避難所は、結局津波で流されて、そのときに居た、一緒に避難した人たちは何人か亡くなったそうです。お父様は一度どこかに避難したそうですが、そこも危ないということで、結局は彼女の母校の高校の体育館で避難生活だったそうです。

因みに自衛隊のヘリコプターに乗った!とちょっと嬉しそうだったと言ってました。まあ、年老いても男の子ですから~。

彼女はご両親は見つかったものの、親戚を6人亡くしたそうです。避難生活ではお母様のほうが疲労が激しく大人数でのプライバシーのない生活がこたえていたそうです。自宅は1階部分が壊れていて、とてもじゃないけど暮らせない状態で、2階も鍵が無いから盗難にあってるし、しかたなくアパートを探すにも、こちらはボランティアの人が借り上げてて部屋が無い。

仕方なくお母様と彼女は、親戚の家に。そちらも勿論被災していますが、何とか家だけは無事で、鍵もかかるし、生活できたそうです。

一方、お父様の方は、驚いたことに避難生活も平気~!だったそうです。外国まで長時間の船に乗る生活でしたから、プライバシーって何?美味しいの??みたいなノリで暮らしていたそうで、閉鎖された空間も限定された生活も気に留めず、毎日平然と暮らしていたそうです。80代なんですが…昔とった杵柄ってこのことですね。
職業が人を鍛えるっていう生きたお手本みたいです。人生って奥深いわ~。ひそかにワタシは尊敬しましたよ。彼女のお父様。

先月、ようやく家が修理できて引っ越したそうです。でも周りに残っている住宅は少なくて、瓦礫の山があちこちにあって、それは荒涼とした感じだそうです。あれこれと手続きに市役所にも行くのですが、職員もわからない事も多いし、人も多いし、毎日喧嘩があってたそうです。被災後に長崎からも役場の職員がボランティアに行ったのですが、何故役場の??と思っていたら、こういう場面で必要だったのですね。事務的な需要なんですね。

なんとか生活は落ち着いたものの、彼女は仕事があるので東京で暮らしていて、これからの厳しいトウホクの冬に、年老いた両親をどうしようかと悩みチュウだそうです。トウキョウには来たがらないって。


もう一人、リハビリ室の実習生のお話です。
彼は仙台だったので、自宅の壁にヒビが入ったのと、ライフラインの切断が一番大変だったそうです。海の近くの親戚のうちから実習に出ていたお友達が親戚とともに亡くなったそうです。

友人の供養とお見送りのために、仲間と集まったそうです。周りは瓦礫だらけ。のどかな漁村があっという間に消失していて、あまりの根こそぎな様に、もしかしたらすべてがそのままどこかに移動しちゃったんじゃないか?そこで、友人は実習を続けているんじゃないかと思ったそうです。仲間で黙祷して、女の子は泣き出して、若いだけに残酷ですよね。

そんな中、瓦礫の山を掘り起こす人々。車のナンバーは関東、言葉は日本語じゃない。で、その人たちは瓦礫から掘り起こしたモノを持ち帰っているそうです。彼は見なかったけど、地元の人はご遺体からものを盗っていくのも目撃しているそうです。お金になりそうな貴重品である前に、残された家族からしたらそれは遺品です。亡くなった人が残してくれた形見の品です。そして身元を確認するための大切なものです。

でも明らかに怖い面々で、当事者でもない彼らですから何もいえなかったそうです。そりゃそうですよね。何かあったら大変だ。

何もできずに居ると、どこからとも無く走ってきた右翼の街宣車が、「何しよんじゃ~~~お前ら~~~~!!」と叫びながら、その人たちを一蹴してくれたそうです。乗っていた人たちは、盗ってた人たちよりも数倍ガラが悪く、数倍強面で、大変怖かったそうです。普通ならお近づきになる前にご遠慮するだろうとのことでした。

今までの人生で、右翼の街宣車をこんなに頼もしいと思ったのは初めてだったと言ってました。


被災した人たちにとっては、語れないくらいの沢山の辛いことがあったコレまでの毎日。その中でも、かすかに光る出来事が心の隅っこを温めてくれるわけで、生きることはやっぱり素晴らしいです。



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